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山をめざした旅人と、道の茶屋の八重桜
── 秦野の八重桜文化をたどる
八重桜は、めでるだけの花ではありませんでした。秦野では古くから、花を摘み、塩と梅酢で漬け、湯にひらいて客に出す。人が行き交う道のそばで、花は食べものになり、暮らしの一部になっていきました。その歩みを、街道と大山詣での歴史からたどります。
Chapter 01花を食べる、という文化
桜は、春になると私たちの目を楽しませてくれます。しかし、桜の楽しみ方はそれだけではありません。花びらを塩や梅酢に漬けた「桜の塩漬け」は、お湯にひらけば桜湯になり、桜餅や桜あんパンの香りにもなります。日本人は、花をめでながら、同時に花を食べてきました。
その塩漬けに使われるのが、多くは栽培品種の八重桜です。一重咲きのソメイヨシノと違い、花びらが幾重にも重なって咲く桜を、八重桜と呼びます。有名な品種には、関山(かんざん)、普賢象(ふげんぞう)、八重紅枝垂れ、福禄寿などがあります。花びらが厚く、ふくよかに重なる姿は、まるで牡丹のよう。その厚みが、漬けても形を保ち、色と香りを閉じ込めてくれるのです。
日本で八重桜が親しまれてきた時間は長く、平安時代にはすでに和歌に詠まれていました。のちに百人一首にも選ばれる一首が、それです。
いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな
伊勢大輔 (百人一首)
奈良の都に咲いた八重桜が、宮中に献上された折に詠まれた一首です。古い都の花が、今日、九重の宮でいっそう輝いて見える──花をめでる心が、千年前から言葉に残されているのです。
秦野市は、神奈川県で唯一の盆地です。北部には丹沢山塊が連なり、「神奈川県の屋根」とも称されます。その山あいの千村(ちむら)地区では古くから桜が多く、いまも「八重桜の里」として知られています。市内では東田原、蓑毛、千村など、各地の八重桜農家がこの花を育てています。
Chapter 02山をめざした人々 ── 大山詣での時代
八重桜の物語をたどるには、まず大山詣での話から始めなければなりません。秦野の八重桜は、信仰の旅とともに広がっていったからです。
丹沢山地の東端にそびえる大山は、古くから信仰の対象でした。平地から見てもその姿は際立ち、別名を雨降山(あふりやま)とも呼ばれます。雨乞いや五穀豊穣の祈願、そして商売繁盛のご利益があるとされ、人々の心を捉えてきました。
江戸時代の中ごろ以降、大山信仰は庶民の間に広がります。江戸の人口が100万人だった時代に、年間およそ20万人もの参拝者が大山を訪れたと伝えられています。江戸からは5日ほどで往復でき、帰りに江の島などへ立ち寄ることもできる。信仰と行楽を兼ねた旅として、江戸の人々の人気を集めました。
参拝者の多くは、講(こう)と呼ばれる団体で訪れました。町内会や同業者組合が費用を積み立て、お参りツアーとして大山をめざす。宿坊で人々を迎える主人は先導師(せんどうし)と呼ばれ、その役は先祖から代々受け継がれてきました。
講の人々は、江戸から巨大な木太刀を肩に担いで運びました。これは、源頼朝が武運長久を祈って自らの刀を大山寺に奉納した、という故事に由来するといわれます。大勢で声をかけ合いながら山道を登る──その行列が、街道沿いの村々を通っていったのです。
江戸の人口が100万人だった時代に、年間20万人が大山をめざした。その人々が歩いた道のそばに、秦野の村々はありました。
Chapter 03行き交った道 ── 矢倉沢往還と大山道
江戸時代、東海道の脇往還として整備された街道に矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)があります。江戸城の赤坂門から始まり、三軒茶屋、長津田、厚木を経て、足柄峠を越えて駿河国の沼津宿へと至る道です。
江戸時代の中ごろに大山詣でが盛んになると、宿駅の整備されたこの道が参詣道として盛んに使われるようになり、大山道(おおやまみち)、あるいは大山街道とも呼ばれるようになりました。その名は、現在も神奈川県内の旧道に定着しています。
大山道は主なもので八道あるとされ、そのひとつが青山通り大山道、すなわち矢倉沢往還です。宿場から宿場へと人馬が荷物をリレーするこの道は、松田惣領から千村(ちむら)・曽屋(そや)を通り、善波峠を越えて伊勢原へと続いていました。千村は松田惣領と曽屋の間を、曽屋は千村と伊勢原の間を、それぞれ受け持っていました。
ほかにも、秦野市曲松で矢倉沢往還から分かれ、蓑毛を越えて大山阿夫利神社の下社へ至る蓑毛通り大山道があり、いまも古道としてその名が残ります。小田原方面からは六本松通り大山道が通じ、千村や十日市場(曽屋)を経由していたと考えられています。
宿場を支えた施設 ── 問屋場と人馬継ぎ立場
宿場の中心となる施設が問屋場(といやば)です。幕府の公用で旅をする人や大名が宿場を利用する際に、必要な馬や人足を用意し、荷物を次の宿場まで送り継ぐ。人馬継ぎ立場とは、この人馬によるリレー輸送の仕組みを指します。曽屋村と千村には、この人馬継ぎ立場が置かれていました。
江戸時代後期、伊能忠敬が全国を測量し、その没後に測量データをもとに完成した『大日本沿海輿地全図』には、矢倉沢往還の主要な地点として千村・曽屋村が記されています。村の名が、天下の地図に刻まれていたのです。
また、この道は千村の茶屋が桜湯で旅人をもてなした場所でもありました。街道の史実と八重桜の文化が、同じ村の名のもとに重なっています。
旅の季節
当時の往来は、春先から秋口までが通常でした。冬の旅は厳しく、山をめざす人も、それを迎える村も、暖かな季節に動いていたのです。八重桜が咲くのは4月。ちょうど、旅人が街道を歩き始める季節と重なっていました。
Chapter 04茶屋の桜湯 ── 八重桜が旅人に出会った日
では、秦野の村々で桜漬けがつくられるようになったのは、なぜだったのか。伝えられている理由は、ふたつあります。
ひとつは、村の祭事の費用を得るためでした。当時の村の暮らしにとって、祭りは大切な営みでしたが、その費用を用意することは容易ではありませんでした。そこで桜漬けを造り、旅人に「桜湯」として振る舞う商いを始めたと考えられています。桜漬けは、八重桜と梅酢という、その土地で手に入る素材でつくれるものでした。この由来は、郷土史にも記されています。
もうひとつは、矢倉沢往還の茶屋に由来するという説です。街道沿いの千村地区の茶屋では、桜湯で旅人をもてなすことが慣例だった、というものです。江戸時代末期には、東海道や矢倉沢往還の茶屋で出す桜茶用として、また祭事費の捻出のために、桜漬けの生産が始まったと伝えられています。
いずれの由来も、桜がこの土地の暮らしと深く結びついてきたことを示しています。
折しも大山詣でが盛んになり、箱根方面や京都・大阪方面からも多くの旅人が、矢倉沢往還から大山道を往来するようになりました。茶屋で振る舞われた桜湯はたいへん好評で、口づてに各地へ広まっていったと考えられています。旅人は、花の香りを郷里へ持ち帰ったのです。
いまも秦野の八重桜を買いに来る業者は、京都など、秦野より西の方面が多いといわれます。旅人の口づてが、数百年の時をこえて残っているのかもしれません。
こうして八重桜は、めでる花であると同時に、旅人をもてなし、村の暮らしを支える花になりました。花を摘み、塩漬けにするという手仕事が、地域の産業として根づいていったのです。
Chapter 05花を漬ける ── 手仕事として受け継ぐ
桜の塩漬けに使われるのは、主に関山(かんざん)という品種です。濃いピンクの花びらが特徴で、漬けたときに美しく発色します。使うのは、満開の花ではありません。つぼみがほころびかけた7〜8分咲きが最適とされます。花びらがギュッと重なり合っているほうが、発色がよく見栄えがするからです。
摘み取りは手作業で、花の時期のおよそ1週間が勝負です。摘んだ花はその日のうちに、塩と白梅酢で漬け込みます。約1か月漬け込んで、ようやく完成します。花を広げ、まぎれた小枝やほこりを落とし、形の良い花を選び分ける。その多くが、人の手によって行われます。
千村地区では、100軒を超える生産者がおよそ2,500本の桜を世話していると伝えられます。こうしてつくられる塩漬けは「丹沢のさくら漬」として親しまれ、神奈川県と生産団体がつくる「かながわブランド」にも登録されています。統一の生産・出荷基準を守り、一定の品質を確保する。長く続いてきた手仕事だからこその、裏づけです。
秦野市全体では、食用八重桜の生産量が年間15〜20トン。国内で流通する食用八重桜のおよそ8割を、この土地が担っているともいわれます。全国の食卓に届く桜の香りの、その多くが秦野から来ているのです。
Chapter 06いま、受け継ぐということ
秦野では、多くの家庭が八重桜の塩漬けを漬けてきました。花の時期に摘み、塩と梅酢で漬けて、一年分を仕込む。それは、暮らしに根づいた手仕事でした。
しかし、その数は年々減ってきています。担い手の高齢化、そして漬物の衛生管理に関する基準がより丁寧に求められるようになったこと。家庭で気軽に、というわけにはいかなくなってきました。文化を支えてきた手が、少しずつ少なくなっているのです。
それでも、八重桜の文化は消えていません。結婚式場やお祝いの席では、いまも「桜湯」が振る舞われます。桜餅や桜あんパンを口にする人は、その花が八重桜であることを意識していなくても、確かにその文化に触れています。知らず知らずのうちに、暮らしの中へ受け継がれているのです。
文化は、手をかける人がいてこそ続きます。摘む人、漬ける人、買う人、そして口にする人。その輪のどこかが欠ければ、花は食べられる花でなくなってしまいます。
一般社団法人 秦野八重桜協会は、市内全域の八重桜農家の皆さまと連携しながら、花を摘ませていただき、原料として次の使い手へ届ける取り組みを進めています。ジョイント八重桜をはじめ、長い時間をかけて育てられてきた木から花を摘み、その価値を、飲料や食品の分野へとつないでいく。摘む・漬ける・届けるという営みを、地域ぐるみで次へ手渡すことが、協会の役割だと考えています。
秦野の八重桜をめぐる歩み
- 平安時代八重桜が和歌に詠まれる。宮中の花として親しまれる。
- 江戸時代
前期矢倉沢往還が、東海道の脇往還として整備される。 - 江戸時代
中期〜後期大山詣でが盛んになる。年間およそ20万人が大山をめざし、矢倉沢往還が参詣道として使われる。 - 江戸時代
末期千村などで桜漬けの生産が始まる。祭事の費用を得るため、また街道の茶屋の桜湯のためと伝えられる。 - 1821年
(文政4年)『大日本沿海輿地全図』に、矢倉沢往還の主要地点として千村・曽屋村が記される。 - 1985年千村若竹会が発足。それまで小田原方面へ出荷していた花の一部を、自ら加工するようになる。
- 現在市内で年間15〜20トン、およそ2,500本。国内シェアの約8割を担う産地として、塩漬けの文化が続く。
- 2026年一般社団法人 秦野八重桜協会が設立登記へ。市内全域の八重桜農家と連携し、次代へつなぐ。
Chapter 07用語の手引き・参考資料
用語の手引き
- 大山詣で(おおやまもうで)
- 大山(神奈川県伊勢原市)へ参拝すること。大山は別名「雨降山」と呼ばれ、雨乞い・五穀豊穣・商売繁盛のご利益があるとされた。江戸時代の中ごろ以降、庶民の間に広く普及した。
- 講(こう)
- 同じ信仰を持つ人々の集まり。町内会や同業者組合が単位となり、費用を積み立てて参拝の旅に出かけた。
- 先導師(せんどうし)
- 参拝者を迎える宿坊の主人。その役は先祖から代々受け継がれてきた。
- 矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)
- 江戸時代に整備された街道。江戸城の赤坂門から、相模国を経て足柄峠を越え、駿河国の沼津宿へ至る。東海道の脇往還であり、大山参詣の道としても使われたため「大山道」「大山街道」とも呼ばれる。
- 問屋場(といやば)
- 宿場の中心施設。幕府の公用旅行者や大名が宿場を利用する際に、必要な馬や人足を用意し、荷物を次の宿場まで送り継ぐ業務を行った。
- 人馬継ぎ立場(じんばつぎたてば)
- 人と馬によるリレー方式の輸送。宿場から宿場へと、荷物を順に受け継いで送り届ける仕組み。
- 桜漬け・桜湯
- 八重桜の花を塩と白梅酢で漬けたものが桜漬け。湯にひらいたものが桜湯で、祝いの席などで振る舞われる。
- 丹沢のさくら漬
- 秦野市千村地区でつくられる八重桜の塩漬け。「かながわブランド」に登録されている。
参考資料
- 文化庁「日本遺産 江戸庶民の信仰と行楽の地 ~巨大な木太刀を担いで『大山詣り』~」
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/meguri/isehara/ - 大山阿夫利神社「大山阿夫利神社に残る、願いの歴史」
https://www.afuri.or.jp/about/history/ - 伊勢原市「大山詣り」
https://www.city.isehara.kanagawa.jp/oyama_mairi/ - 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所「問屋場とはどういう施設ですか」
https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0212.htm - Wikipedia「矢倉沢往還」
https://ja.wikipedia.org/wiki/矢倉沢往還 - SHUN GATE「春の風情を届ける、桜の塩漬け」
https://shun-gate.com/roots/roots_117/ - 旅行読売「【食べる桜の世界】食べる桜の里を訪ねて 秦野市」
https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/004284.html - 神奈川県立公文書館ほか「矢倉沢往還」「曽屋宿」関係資料
https://kaidoutabi.com/yagurasawa/11soya.html
本文のうち、由来や伝承に関する記述は、諸説あるものを含みます。「と考えられています」「と伝えられています」と表記した箇所は、確定した史実ではなく、伝えられてきた説であることを示しています。数値は公表されている資料に基づくもので、年度により変動します。